![]()
大津市 中2男子いじめ死を考える
昨年10月に起きた大津市の公立中学校2年生男子の事件から考えてみたいと思います。私は相談員として8年間、公立中学校で子どもたちと接してきました。始めに、その頃に読んだ本から少し抜粋要約してみます。少し長いですがお許しを。
森田洋司著「いじめとは何か」より抜粋要約
日本でいじめが社会問題として取り上げられたのは1980年代の半ば。1970年代から吹き荒れていた校内暴力が80年前半にようやく終息し、新しい問題領域として「いじめ」が位置づけられた。
当時、いじめの原因は、「島国根性」「違いを排除する国民性」「人々の横並び志向」「加熱する受験勉強」「管理主義教育と体罰」など、日本的な特徴を過度に強調した原因論が展開され、結局、日本では「加害者への教育的な指導で対処する」という従前の大枠が代わることはなかった。
いじめが社会問題となる最大の契機は、追い詰められた子どもたちの自殺とその遺書であり、マスメディアの連日の報道と国民の不安感情であった。学校現場では、いじめられた子どもが発するわずかなサインにどうすれば気づけるか、子どもたちの気持ちを受け止めるカウンセリング・マインドの習得に関心が集まっていった。こうして、日本のいじめ対応は、それまでの処分や懲罰に代わって、教育的指導と心理相談を特徴とする対応が展開された。
その後、いじめの発生件数は沈静化されたと言われるほど発生件数は激減。しかし、1994年、愛知県で起こった中学男子のいじめ自殺事件で、いじめによる深刻な被害が再びクローズアップされることになり、日本中に衝撃を与えた。また、その頃から不登校が増え始め、文部省によるスクールカウンセラーの配置や、市町村による「心の教育相談員」の配置が始まった。
このとき、埼玉県では全国に先駆け、県内の全公立中学校にさわやか相談室が設置されました。by松田
こうして、心理面での教育相談に比重を置いた指導体制が強化され、いじめ問題への対応でも被害者を守る「こころの相談体制」に重点が置かれた。
このように、いじめに対してさまざまな取り組みが試みられてきたにもかかわらず、2005年、2006年といじめ死事件が相次ぎ、これまでの対応策に加害責任という視点が弱かったことが反省され、「傍観者も加害者」とし、回りの子どもたちに、学校という社会を構成する一員としての責任を自覚させる大切さが訴えられた。
そして、現在、行為責任を加害者への懲戒に短絡させるのではなく、また、個人の問題としてではなく、子どもたちが社会を構成する一員として期待される行為責任を果たし得るよう教育すること、すなわち、「社会責任能力」の育成に向けた指導の開発が必要とされている。「社会性の育成」「社会的責任能力」という社会の中で生きていくための基本的な能力と資質の獲得である。
以上、著書のなかから学校現場での対応の歴史を要約しましたが、これからの対応策として、著者は
「児童会や生徒会を、学校社会において自分たちが直面している問題を自分たちの手で見出し、問題に直面している個人を助けることにとどまらず、自分たちでそれを解決する場」に昇華させ、社会や集団の力を増すことによって、集団のなかに歯止めを埋め込もうとする試みの意義を訴えています。
今回の事件を報道で知る限りで考えると、本人や複数の子どもたちはいじめの実態を大人に訴えていましたが、学校として問題化されなかったような感想を持ちます。大津市の場合に限らず、学校全体で問題に対応していこうという学校の体制なくして、相談された先生も動けない。憶測の範囲内ですが、そんな現実があったかも知れません。勇気を持って訴えた子どもたちが感じているであろう無力感を考えるとほんとうに痛ましい気持ちになります。
自分の子育て、8年間相談員として教育現場を見てきて、子どもたちが問題意識を高く持って活動しているときは、大きな課題もしっかりと乗り超えて行くし、そのとき、子どもたちが大きく成長していくという場面を幾つも見てきました。厳罰化、教育相談と様々な取り組みが行われてきました。現場の先生方には手間のかかることではありましょう。でも、児童会や生徒会を「子どもたちの自治組織」として進化させる余地について、是非研究していただきたいと願います。私も、このことは民主主義の根幹としてもとても大事なことと思っています。
学校という場所を安全で安心な場所にしていく。その当事者として、児童や生徒一人ひとりが問題を直視し、一人ひとりが解決していく当事者となること。そのような態度を育てる教育「市民性を育てる教育=市民性教育」こそ、今後、本当に子どもたちを守っていくことになるのではないかと思います。王道に近道なし、みなさんはどう思われますか。