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国と地方のあり方

2017.04.25

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衆院憲法審査会 公聴会開かれる

 4月21日 朝日新聞より

 衆院憲法審査会が20日、「国と地方のあり方」をテーマに4人の参考人から意見を聞き、自治体のあり方や沖縄基地問題、国会に地域代表制を設ける是非などを議論した。というニュース。長文を何本も更新して申し訳ございませんが、気になるニュースです。よろしくご高覧のほどお願いいたします。

 情報には必ず送り手の意図がありますので、紙面がどのような観点から発信されているのかには気を付けないといけないワケですが、朝日新聞のまとめを参考に少し考えてみたいと思います。
 参考人として呼ばれた教授の選考基準等はわかりませんが、以下は4人の教授のご意見の抜粋です。

 明大教授
「もはや国民の意思決定は国会に一元化できない。国民主権の地域的な行使の場として地方自治を考えることが大事だ・・・」

 沖縄大客員教授
「地方自治の原則に照らせば、沖縄の民意を尊重して基地建設を断念するのが憲法のもとにある政府がなすべき当然の選択だ・・・」

 東京大大学院教授
「国の立法権による過度の介入を防ぐため、地方自治法の『国と地方自治体との適切な役割分担』の内容を憲法レベルで規定する。現在、地域の課題に対応すべき自治体や、その連携のあり方では多様性が重要だと多く指摘されているのに、憲法上、議員と首長はそれぞれ直接公選で選ばれるという一律の組織体制が養成されている。多様な民意の反映と集約の視点から、首長を議会で選出する可能性も模索すべきではないか」

 中央大教授
 「『地方自治の本旨』を法律に委ねるのではなく明確に憲法に書いたらどうか。地方自治権、住民監視権などを明示したらどうか。現行憲法は国と地方の役割分担について何も書いていない。人口減少時代に財政の効率性から考えても、道州制以降を本格的に検討すべき段階ではないか。大都市や樹ぞ自治体を基礎に置く新たな州の創造というイメージを作る必要がある」

 ・・・は私が割愛いたしました。大学教授のご意見を見て、僭越ながら、これは素晴らしいと思える論点を見つけることはできませんでした。

 国民の意思決定が国会に一元化できないという認識。地域の主権がどのような範囲を指すのか詳しいことはわかりませんが、教授が唱える、自民党改憲草案が「地方自治を住民に身近な自主行政に限定する意図が明確であり疑問が残る」とする疑義。これには自民党議員からも反論する主張があったということですが、私も教授の発想には賛成しかねますね。
 また、沖縄の基地問題はとても難しい面があると思いますし、負担の軽減は考えていかなければならないことではありますが、地政学的な観点などはどのように整理されているのか。
 また、首長を議会から選出するというのも突飛過ぎて、今のところ私は容認はできません。
 道州制に対しては、私も幸手市の財政規模で大きな事業を進めるのは余程の覚悟が必要であることを、駅舎事業等を題材に市政に進言してきた立場です。合併が十分進んでいない中で、財政規模の小さな自治体の財政運営が厳しいとの問題意識は共有するもので、検討の余地はあるのかなと思います。しかし、実際には広域連合という手法により、複数の自治体が合併には至らずとも共同して事務を行っているということも増えています。道州制のイメージや教授の発言の真意を、私も今後研究してみたいと思います。

 実は、私が理想としているのは江戸時代の「藩制」です。徳川幕府という「天下=国家」があり、天下を治める者が「租」「調」「庸」を課す。地方は「藩・国」として地域を治める。律令制の昔から国家という概念はあったし、その概念を手放したら国の体はなくなるでしょう。世界が植民地時代に日本が諸外国の支配から免れたのは、江戸幕府の鎖国政策などが日本全体に行き渡っていたからです。日本が国家としてあり続けるなら、地域がバラバラになるような方向性はNGです。

 また、各藩は自立を求められていました。だからこそ、今でいう伝統工芸や文化が奨励され、地域の特徴を活かす殖産産業が盛んとなった。そして藩政を潤した。今のように地域経済が自立的に成り立たなくても地方交付税がもらえる的発想では新しいものは生まれません。では、国税の地方への分配率を高めれば地方の自立的自治が進むかというと私は懐疑的です。ポピュリズムに屈しない余程のリーダーが表れれば別ですが。

 時代は刻々変化していますが、私の理想は江戸時代にあります。大学の教授は論文等で新しいことを発表するのがお仕事でしょうが、私は「歴史に学ぶ」べきは学ぶという態度が肝要と考えます。よその国との比較も大事ですが、まずは温故知新ですね。日本は千年以上続いている国家ですから。

 衆院憲法審査会の開催はスケジュールが遅れているということのようですが、様々な意見を聴取して、国会によって間違いのない日本の将来像が描かれることを祈念するとともに、私たちは「国民の意思決定」に国会議員を選ぶことで関与できることを忘れてはなりません。そして、政府や政治にコミットできる手段も多様に用意されているのです。選挙の投票率が年々悪化していることは由々しきことであり、私たちは1票の権利を放棄しないこと、そして、公的に開かれた手段や手続きを”伝家の宝刀”にしない。
 これが何より大事ではないかと思う次第であります。長々とすみません。皆さまはいかがお考えでしょう。

森友保育園 本当の決着点は

2017.04.25

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保育士確保できず 大阪市が改善勧告を出す方針

 4月21日日経新聞より

 いつも新聞が後追いになってしまうのですが、私の備忘録としてもブログで取り揚げさせていただいています。さて、今回の記事は、大阪市淀川区にある「高等森友学園保育園」についてです。

 記事によると、学校法人「森友学園」が、系列の同保育園の今後の運営について「現時点で保育士の確保はできていない」と市に報告、市は早急に保育士を確保するよう改善勧告を出す方針であるということであります。

 保育園の園児を第一に考えていくとのことですが、保育園には現在45人の園児が在籍。園長は存続の意向なるも、今月上旬、保育士2人が自己都合で退職し、基準の6人を満たせなくなり、市では保育士資格を持つ市職員を28日まで派遣する緊急措置を取っているということです。
 今後の改善勧告に従い、園が28日までに運営内容を改めない場合、市は改善命令を出す。園の対応を見たうえで市の審議会が事業停止届けを出すかどうか判断する。また、市は園が保育士を確保できない状態が続けば、職員の派遣を延長することも検討するとしている。 以下・・・。

 このような記事内容です。保育園の認可内容に疑義が生じたわけではなく、母体の学校法人の問題の余波を受けて発生した存非問題。なんとなく「無茶な話しだな」との印象を受けます。
 確かに、母体の学校法人には様々な疑義が生じています。さらに同保育園の保育内容もかなり極端な印象を受けますが、しかし、認可とは別の問題です。公の機関の責任において発効した認可に基づいて行われている事業が、認可とは関係のない問題の余波を受けて勧告や命令、最悪は認可取り消しを余儀なくされるかも知れない。
 確かに法治国家の日本において、法に従わないことは罰せられるのは当然ですが、認可権限のない国会議員や市議会議員、マスコミが随分騒いでいて、結果として認可の是非にそれが深く関与するという構図も見えて。

 今回の森友問題は、近畿財務局など国の機関の関与もあり、国会でも追及がなされたものと思いますし、実際にどのような問題があったのか、私に細事はわかりません。しかし、許認可に基づく行為に対して、許認可機関以外の思惑が「世間」を作り、世間が制裁するような行為がまかり通るというのは法治国家の、民主主義国家の在るべき姿なのか。よくわかりません。 

 そういえば、幸手市議会では一昨年、「都市公園等指定管理業務委託」に関して疑義が生じ、特別委員会を設置して調査をいたしました。その調査の中で、ある議員が、「赤字になっているのに従業員の給与が高すぎる」という内容の発言をし、驚いた経緯があります。
 確かに、指定管理料に対して赤字が発生していたことは調査の対象ではありますが、しかし、その赤字分に対しては事業者が補てんをし、市が追加的に委託費を払ったわけではありませんでした。
 私たちが調査すべきは「指定管理料と委託する仕事量の整合」であり、市の入札(事業設計)や契約の妥当性でありました。賃金はある種、企業努力の範疇です。事業者の賃金にまで議員が口出しできるのか。しかも、私たちは百条委員会のように証人喚問をしたわけではなく、参考人招致をしたに過ぎない状況の中での賃金への発言は越権行為ではないかと感じたということがありました。
 
 今回の改善勧告はこの問題の決着点として正しいのか。学校法人にまつわる一連の問題から政局やマスコミバッシングなどを差し引いたら、どんな問題が残るのか。本当の責任の所在、特に許認可の責任の所在を明らかにしていくことが、この問題の本当の決着点ではないかと思うのですが。

私は法律の専門家ではありませんので、どうしても一般の市民感覚でしかこのような問題を考えることはできません。手続き論としては、保育士を手当てできなければ改善命令を出され、それでも改善できなければ許認可取り消しということも考えられる案件です。私も議会制民主主義の末席にあって間違った判断をすることは許されない立場と認識しているところです。法律等に詳しい方がいらっしゃいましたら、この問題の本当の問題点について是非ご教示いただけると有難いです。